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[執事]前と後のお話

『うちの執事に願ったならば 6』のおまけです。(本編に深く関わる内容を含みます。未読の方は御注意ください)

 

 

 

 

 

      * * *

 口に運んだガパオライスが、砂利に変わったようだった。
「早苗は明日、友達と観劇だろ」
 小学校からの下校中、木から落ちて潰れた柿を見た時と同じ顔で、橘が言う。
 彼にとって現実は、確定事象の連続だ。『もしも』の世界を夢想しない。あり得ない可能性を模索するほど他者に興味がない。潰れた柿に等しく、早苗の予定も橘の前では事実として横たわるのみだ。
 彼の無関心は、しかし裏を返せば寛容にも等しい。全ての現実を受け入れて、誰にでも等しく接する事が出来る。
 早苗には難しい。
 好きなものには執心してしまうし、嫌いなものに対しても、どうにか折り合いを付ける道はないかと悩んで、悶え苦しんで、奮闘せずにはいられない。
 橘から見れば、早苗は無駄の多い人生を送っているのだろう。こうして話している時ですら、早苗の中には様々な感情が同時に発生して、どれも我こそが本心ですという顔をする。
 早苗が蓮根にフォークを刺すと、金属の振動が感情のひとつを骨に縫い付けた。
「……私も偶には橘と遊びたい」
 選りに選ってこれが表に出るとは。早苗本人も思ったのだから、橘はさぞ呆れたに違いない。
「オレはどっちでもいい」
「ひどい!」
「毎日会ってるじゃないか」
 橘があまりに彼らしい理屈で首を傾げたので、早苗もいつもの調子に戻って双子の兄を気兼ねなく抗議した。


      * * *

 『彼女』と知り合ったのは秋のフランス。
 烏丸家が主催した技術交流研修に、他家のメイドとして参加していた。以来、短いメッセージのやり取りに始まり、今では休日が合うと連れ立って出かける友人関係にある。
「天草さん」
 早苗が待ち合わせ場所に到着すると、彼女は相好を崩して小さく手を振った。
「お待たせしました」
「時間通りよ。早苗さんは几帳面ね」
 琥珀色の目を眇めて、天草が楽しげに笑う。
 メイド職に華美な装飾は求められない。制服を身にまとい、髪を結って、化粧は最小限に。だが当然、研修中は存在感を消すようだった彼女も、一歩外に出れば個性ある人間だった。
 シンプルなワンピースにキャメル色のブルゾンを羽織る姿は年相応で、小さなハンドバッグには大きなリボンがあしらわれている。長い髪は手を加えず背に下ろしていたが、ジャケットと色を合わせたベレー帽が視線を引いた。サイドに付けた襟章の形のバッジが可愛らしい。
「行きましょ。舞台、楽しみだわ」
「ハートフル痛快スペースレンジャーものと聞いています」
「取引先の方にもらったのだったかしら」
「はい。刻弥様の機転で大惨事から事なきを得たお礼の恩恵に与りました」
「何だか大変だったのね……。観た後にその話も聞かせて?」
 天草は早苗を気遣うように労って、劇場へと彼女の腕を引いた。

 話を聞く。
 口にすればたった一言だが、現実に行うには複合的な能力を要する技能だ。
 相手の前に座っていれば良いというものではない。
 話し手への関心の示し方。素早い論旨の把握と意図に沿った賛同、相槌。話し手の自己矛盾が口の端に上った時に柔らかく速やかに異論を挟めれば、反感を抱かせず、より共感を強める事が出来る。
 だが、技能一辺倒でうまくいくとは限らない。人に寄って話すペースは異なり、話題も変われば価値観も変わる。気分や体調によって左右されるところは殊の外、大きい。
 早苗は仕事柄、相手に合わせる事が多い為、常に気を張って身構えなければならないが、天草といる時は楽に話す事が出来た。
 天草は相手に気持ちよく話させる間合いを知っているのだ。
(お陰で話しやすい)
 早苗は心の半分で観劇を楽しみ、天草に誘われるまま近くのカフェに入った。
「素敵なお店ね」
 天草が遠慮がちに店内を見回して、早苗に囁きかける。早苗は注文用のタブレットで揺れるキャンドルの炎の画像から、ゆっくりと首を巡らせた。
 光量を押さえた照明と、ソファをメインとした席は気分を落ち着かせる。梁が剥き出しの天井でゆったりと回転するのは四つ羽のファンだ。ボールチェーンのスイッチが下がっているが、早苗の身長では脚立に上っても届きそうにない。飾りと化したスイッチが退屈そうに揺れるのは、業務用エアコンの風が当たっている所為だろう。
 客の姿は少なくないのに、声が殆ど聞こえない。声高な笑い声が一瞬、弾けたかと思うと、声の主がすぐに肩を竦めて、友人と密やかに笑い合う。まるで秘密の集会所の様だ。
 早苗は天草と並んで座り、ワンプレートの軽食とベリーのソーダを注文した。料理は驚くほど速く運ばれて、店員がテーブルを離れると席は静穏の中に隔離される。まるで自室で寛いでいるような心地になった。
「お兄さんと一緒にお仕事するのって、どんな感じ? 他人より意思疎通が利きそうだけれど」
 天草が紙のストローから唇を離す。待ち合わせの時の話を覚えていたのだろう。
「情報の共有はしやすいですが、ダメですよ。意地悪で」
「意地悪?」
 早苗が身体の前で腕を交差させると、天草が目を丸くして小首を傾げる。
「兄はひどいんです。あ、また」
 早苗はテーブルの隅に置いたスマートフォンを手に取り、天草に見えるように画面を傾けて、着信通知からメッセージ画面を開いた。
 橘とのチャットには、昼から数枚の写真が送られて、今また新しい写真を受信したところだった。
 水族館の門。チケットを持つ手。
 日向ぼっこをする陸亀。大口を開けて餌を待つワニ。
「何の写真?」
「今日、兄は刻弥様と水族館に行っているんです。私と兄は代わりばんこで刻弥様のお供をしているんですよ?」
「そうね。そう聞いてる」
「だったら、私が当番の日でもいいじゃないですか、水族館」
 早苗は陸亀の写真を全面表示にして恨みの眼差しをぶつけた。これは本心だ。
 天草が困ったように眉を下げる。
「赤目さんにかけ合ったりは出来ないの?」
 早苗は首を左右に振った。
「兄には言いました。いいなあって。そうしたらこれですよ!」
「写真だけでもっていう善意では……」
「ありません。妹だから分かります。これは自慢です。意地悪です」
 早苗が断言すると、天草が微苦笑して早苗の二の腕を励ますように叩いた。
「案外、子供っぽい事するのね、お兄さん」
「子供ですとも。この間までランドセルに上着の裾はさんで歩いてたんですから」
「兄妹ねえ」
「こっちはこっちで楽しいからいいんです。チケットの写真を送り返してやります」
 早苗が鞄からチケットの半券を取り出して写真を撮り、送信すると、一分と経たず、マンボウの影絵を踏む靴の写真が送られてくる。
『早くやれ』
 橘の向こう側に、刻弥の冷めた眼差しが見え隠れする。
 口実は受け取った。早苗が行動を起こす番だ。
 早苗は着信を天草に見せて、人差し指と中指を立てた手を料理の上にかざした。
「天草さんもピースの手、合わせましょう」
 早苗の呼びかけに、天草は躊躇うように身を引き、両手を胸元で握りしめる。
「今いるお屋敷では水仕事をする時に手袋を使わせてもらえなくて、手が荒れてるの。ごめんなさい」
「いえ……大丈夫です」
 早苗は笑顔を作って料理の写真を撮った。
 天草はいつもこうだ。
 顔は疎か、手も、後ろ姿も、影ですら、写真に映る事を避けている。一度、建物のガラスに彼女の横顔が映り込んだ時は、恥ずかしいと言ってその場で早苗にデータを完全消去させた。
 橘に写真を送信すると、タカアシガニを背景に刻弥と自撮りした写真が返ってくる。
「ふふ、楽しそう」
 天草が画面を覗き込んで笑う。
 今なら。
「負けません」
 早苗は宣言して、スマートフォンを掲げると同時にシャッターを押した。
 軽快なシャッター音が鳴る。
「……っ」
 早苗は腕に走った痛みで身を竦め、スマートフォンを取り落としそうになった。
 天草が、早苗の腕を鷲掴みにしている。薄手のセーターの網目に彼女の縦長の爪が食い込む。
「今、私も入らなかった?」
「自分だけ撮ったつもりですけど」
 早苗は笑みが強張るのを感じて、意識的に口の両端を引き上げた。
 天草の瞳が早苗を捉えて動かない。表情は穏やかで、微笑んでいるようにさえ見えるのに、崖の縁に立たされているような緊迫感が早苗の背筋を凍り付かせる。
「見せて」
「はい。確認しますね」
 早苗はカメラモードを切り替えて、撮ったばかりの写真を呼び出した。画面を二度タップして、最新『になった』写真を天草の方へ向ける。
 映っていたのは流れる灰色のストライプ。天草どころか早苗も満足に映っていない。
「失敗です。ブレブレになってしまいました」
 早苗が更に写真を一覧表示にして軽薄に笑うと、天草も花が一気に咲いたみたいに破顔した。
「これじゃあ、人か猫かも分からないじゃない。早苗さん、自撮り下手過ぎ」
 天草が腹を抱えて笑う。店内の静けさを慮って声を抑えると身体だけが小刻みに揺れて、くつくつと煮込まれるおでんの具の様だ。
「まだまだ修行が必要なようです」
「あはは、早苗さん。これ以上、笑わせないで」
「兄に負けたくない一心で」
 早苗が唸るのを見て、天草が息を吐く。彼女は口紅が淡く付いたストローを抜いて皿に避けた。
「グラスの写真を送るのはどう? こうして」
 天草がグラスを手に取り、早苗の方へ差し出す。早苗がグラスを左手に、スマートフォンを右手に持つと、天草が右の手首を取って画角を動かし、グラスの縁の部分だけを画面いっぱいに大写しにした。
「乾杯」
 グラスを軽く当てて、天草の指がシャッターを切る。
 水滴と氷、弾けた炭酸の泡に照明が反射して、イルミネーションの様だ。
「綺麗に撮れた」
 天草がストローを差して、氷を回す。
 二人の指先も映らない、幻みたいな光の写真。
「送ります」
 早苗はソファの背に寄りかかり、『こっちだって友達とデートだから!』と挑発的な文章を入力する。その、文字を打つ操作に紛れて削除済みフォルダを開き、三分前の写真を添付した。
「早苗さんといると楽しくて時間を忘れちゃう。また遊びましょうね」
「是非」
 送信完了して暗くなった画面に、早苗の空笑いが映った。


      * * *

 赤目刻弥の所在は、秘書の早苗でも把握しきれない。
 学生としては赤目家の実家に本拠を置き、アントルメ・アカメのオーナーの椅子はフランス本店本部にある。加えて、支店を展開する各国での宿泊先や気に入りの店を数えると、特定には時間を要した。
 が、学生でも、オーナーでも、赤目家の次男としてでもなく、彼が自分本位に過ごす時は、大抵決まった場所にいる。
 冷たい歩道は高層ビルの影で一層冷え込んで、風が早苗の体温を根こそぎ奪い取ろうとする。俯いて歩く足元の色が変わって顔を上げると、木々の緑が視界に割り込んだ。
 煉瓦道に沿って低木が行儀よく整列している。通りから分かれていざなう先には、背の高い木製の自動ドアが待ち構えていた。
 早苗が呼び鈴のパネルで部屋番号を打つと、無言で自動ドアが開かれる。
 広いエントランスは日差しで満ちていた。見上げる天井は仰け反るほど高く、フレームで正三角形に区切られた天窓から陽光が降り注ぐ。万華鏡を覗き込んでいるかのようだ。
 エントランスの中央に常緑樹が佇んでおり、木の周りを囲むベンチでは住人が談笑していた。子供を連れた親達らしい。幼児が数人、ビニールボールを追いかけている。
 早苗が顔見知りのコンシェルジュに会釈をしてエレベーターホールに入ると、丁度、外出する住人が降りたところだった。
「こんにちは」
「こんにちは」
 知らぬ者同士でもすれ違えば挨拶をする。
 この朗らかな空間と同じ建物内で、人目を憚る策謀が推し進められている事を、安穏と微笑み合う彼らは知らない。
 エレベーターを降りてインターホンを押す。早苗が一歩下がって待つと、重厚な扉が開かれて、兄の橘が迎えに出た。
「お疲れ様」
「写真は使えた?」
「中で」
 橘が顎を引いて、扉を早苗に預ける。彼に続いて部屋に入り、早苗が後ろ手に扉を閉めるのを確認してから、橘は言葉の先を接いだ。
「ヴォルコフ家に協力を持ちかけた。先方が持つ写真資料と一致したよ」
「という事は……」
「彼女は間違いなく、国際的な窃盗常習犯だ」
 橘の口調に動揺はない。
 確かに驚く事ではない。
 橘も早苗も、彼女の素性には既にあたりを付けていた。天草揚羽という名も、数ある偽名に過ぎないのだろう。
 廊下を進むと吹き抜けの二階に行き当たる。早苗が下方のリビングに視線を遣ると、刻弥がノートパソコンと向かい合っているのが見えた。彼は真剣な面持ちで画面を見つめていたが、徐にブルーライトカットの眼鏡を外してこちらを見上げた。
 彼の切れ長の目には、誤魔化しを許さない鋭さがある。
 早苗は思わず顔を伏せて、階段を駆け下りた。
「刻弥様。沢鷹早苗、ただいま戻りました!」
 早苗が姿勢を正して挙手敬礼をすると、刻弥は、今度は彼女を見向きもせずに立ち上がった。
「撮った事を気取られたか?」
「いいえ。密かに連写を使用して、ブレた写真しか撮れなかったように偽装しました」
「それでいい」
 さして楽しくもなさそうに言って、刻弥が手に取ったのは、アントルメ・アカメのロゴが入ったファイルだ。中には紙の束が挟まれており、月末発表の新作ケーキが写真付きで記載されている。
「百ヶ谷の別荘は美術品の展示室があったな。大勢の客人を接待するのは大変だろう。臨時雇いがうっかりしても不思議はない」
 会社の資料に目を通しながら、早苗と橘に指示を出す。
 天草を公的に拘束するには現行犯逮捕が確実だ。餌を撒いて誘き寄せ、待ち構える罠はいくつあっても良い。
「手配する」
 橘が、刻弥が見ているのと同じファイルを早苗に渡す。彼が階段を上ったのは、何処かへ電話をする為らしい。静寂の下りた部屋に橘の話し声が遠くから聞こえる。内容までは聞き取れない。
 早苗は手持ち無沙汰にファイルを丸めたり伸ばしたりしていたが、窺うように顔を上げた瞬間、心臓が跳ね上がって息を止めた。
 目の前に刻弥が立っている。
 冴えた眼光は早苗を骨ごと貫いて、逃げる事を許さない。
「引き続き情報を流せ。自分の意志で動いていると誤認させて、進路を限定する」
「……はい」
 デッドエンドに誘い込む。
 時間は既に幾許も残されていなかった。


      * * *

 天草は聞き上手だ。
 早苗から切り出すまでもなく、様々な事を聞き出してくれる。
 仕事の愚痴から刻弥の交友関係に脱線すれば、烏丸家の話を持ち出すのは容易い。彼の予定、滞在先の噂、近くを通る鉄道、前時代的な催し。重要な情報をくだらない無駄話で包んで会話に溶け込ませる。
 天草は、早苗を騙して情報を引き出していると信じている。早苗は、天草を騙している。
 合わせ鏡の様に、天草も早苗も鏡に映った相手を見て笑っている。
「早苗さん」
「はい!」
 仄暗いバーに早苗の声が響く。
 バーテンダーと客の視線を感じて、早苗が方々に頭を下げると、天草は口元に手を当て、肩を竦めて笑みを零した。そんな可憐な仕草すら、衆目から顔を隠しているように見えてしまうのを、早苗は寂しく感じ始めていた。
「ぼーっとして、疲れた?」
「すみません。最近、お休みが取れなくて」
「まとまったお休みはもらえないの?」
「前もって申請すれば、可能ではあると思います」
「休みは大切よね。あっ」
 天草が開いたばかりの愁眉を再び傾けて、眉根を寄せる。
「何ですか?」
「今気付いたのだけど、私、早苗さんの貴重な休みを強引に付き合わせてない?」
 グラスの足を指でなぞって、天草がテーブルに視線を落とす。
 彼女に強引なところがあるのは事実だ。目的があるのだから当然だろう。情報源の早苗を連れ出さなければ得られるものも得られない。だが、
「嫌じゃないです」
 早苗は数ある本心の中から答えを選び出した。
 不安だが、不快ではない。一緒に芝居を見るのも、服を見て回るのも、食事をするのも、グラスを傾けて笑い合うのも。
「天草さんと話すのは楽しいから元気が出ます」
「ふふ、嬉しい。早苗さんとなら、旅行にいくのも楽しそう。南国でバカンスとか」
 天草がグラスに添えられたハイビスカスを摘んでみせる。
「休暇の日数面から海外は難しいです。国内なら――そういえば」
 早苗はグラスをコースターごと横にずらして、スマートフォンを持った手をテーブルに置いた。
「見て下さい。夜行列車にキャンセルが出てるんです」
「函館行き……」
 天草の双眸が、路線名を捉えて僅かに温度を下げる。
「仕事がなかったら旅行したかったなあ。一度、乗ってみたいんですけど、何ヶ月も前から予約しなければなりませんから、そこまで先の予定は読めないんです」
「秘書は代わりが利かない重要な仕事だもの」
「褒められ慣れていないので照れます」
「私なんか臨時雇いを渡り歩く根無し草よ」
「そんな!」
 早苗は考える前に拒絶した。褒められる事は嬉しいが、彼女が自身を卑下する事とひとまとめにされては困る。言葉の上だけでもそれは認められない。
「私は! 天草さんの自由さを素晴らしいと思います。確たる自己を持たねば成し得ぬ強さです」
 拳を握り締めると指先が熱くなり、手の平に脈動を感じる。早苗の反駁が予想外だったのか、天草は虚をつかれたような真顔で言った。
「あ、ありがと」
「いえ」
 早苗が残り少ないグラスを空にして店員と目を合わせると、天草が入れ替わりで立ち上がる。
「少し外すわね。バスルーム」
「行ってらっしゃい」
 早苗は彼女を見送って、店員に次の飲み物を頼み、スマートフォンに触れた。
 夜行列車の予約ページを更新すると、空席の表示が予約済に変わる。橘が伝手を使って偽造名義で譲り受け、早苗が切り出す直前にキャンセルをした、仮想逃走経路だ。
 店員が飲み物を運ぶ。天草が席に戻ってにこりと微笑む。
 席を押さえたのが彼女でなければ良い。彼女であって欲しい。相反する期待が脳裏で殴り合う。
 早苗はプリンセス・メアリーを喉に流し込んだ。
 ナツメグと生クリームの香りが鼻の奥に留まった。


 長くいたように感じたが、早苗達が店を出るとまだ通りは明るく、若者向けの軽食店や量販雑貨店にも煌々と灯りが点っている。
「楽しかった。早苗さん、また遊びましょうね」
「是非」
 別れの合図になった言葉を交わして。
 天草が街灯の下を歩き出す。
 百ヶ谷家の狩猟会まで日はない。刻弥の方略が思惑通りに機能したとしたら、これきり、天草とは会えなくなる。
 早苗は一歩踏み出して、彼女の背に声を掛けた。
「天草さん。一緒に写真を撮りませんか?」
 振り返った天草の顔が、一瞬驚いた後、くしゃりと笑みに歪む。
「イヤよ。私、写真映りが悪いの」
 首元で押さえた長い黒髪が夜風に乱れる。
 条例違反を防止する区の放送が、天草と早苗の会話を遮って終わらせた。


      * * *

「詰み、だ」
 刻弥が通話を切って、スマートフォンを橘に渡す。
 烏丸家の執事、衣更月に、仕かけた罠を引き渡したのだ。
「すぐに車で向かえば、乗車時間に間に合うでしょう」
「今夜、行動を起こすかは五分だけどな。駅に来ない事を確認してから、百ヶ谷の屋敷に乗り込んでもどうにかなるだろ」
 刻弥と橘は他人事の冷静さで収束へと幕を引く。
 到頭、終わる。
「刻弥様」
 早苗は理性の欠片を接ぎ合わせた。
「私が、衣更月さんをお連れしてはいけないでしょうか」
「意図は?」
「刻弥様の関与はすぐに悟られます。第三者から憶測や邪推、揶揄を交えて伝わるより、私自身の口から話した方が、身に覚えのない謂われを抑えられると考えます」
 言葉にして、早苗は支離滅裂だと後悔した。刻弥は合理的な駆け引きを好む。こんな稚拙な理屈では彼に確かな利益を示せない。
 刻弥は暫く早苗を見据えていたが、橘の方へ首を巡らせると、細い顎を少し上げた。
「オレの目的が達成されれば、経緯は問わない」
「!」
 橘が早苗の前に車の鍵を下げる。
「ありがとうございます! 必ずや、務めを果たして参ります」
 早苗は両手で鍵を掴み取り、返す足で外に駆け出した。


      * * *

 天草が選んだ逃走路は、夜行列車だった。
 客室は個別で人目に付き難く、全室が数ヶ月前に予約で埋まる為、キャンセルで席を取った彼女を追える者はいない。停車駅も乗客も少なく、都合が良かったのだろう。
「ごめんなさい」
 早苗がマフラーと帽子を取り払うと、天草は目を見開いて声を荒らげた。
「沢鷹早苗!」
 叩き付けられた苛烈な憎悪は、炎を間近に突き付けられているかのようだ。
 叶う事なら顔を背けてしまいたい。だが、出来ない。
「友達のフリをして、わざと烏丸家の情報を流してたのね」
「天草さん、貴女は私の友達です」
「臆面もなく」
「……言いますとも」
 早苗は揺れる床に靴の踵を突き立てた。
 言うに決まっている。
 本心なのだから。
 彼女といると楽しかった。彼女に騙されていると思うと寂しくて、自分こそが彼女を騙しているのだと思うと罪の意識に苛まれた。彼女の悪事は裁かれるべきで、同時に別れを名残惜しく思う。
 悩んで、悶え苦しんで、奮闘して、いくつもの感情に縛られて。どれを選べば良いのか早苗自身も決められない、感情という名の蜘蛛の巣に囚われている。
 天草とは違う。
 天草は自由だ
 自身の手で糸を紡ぎ、雪を告げる蜘蛛の様に風に乗って何処へでも飛んで行ける。
 早苗は彼女の様には生きられない。けれど――
 戸口に駆け付ける足音が止む。廊下が緊迫している。鉄道警察隊が打ち合わせ通り、配置に付いたのだ。
 早苗は心を雁字搦めにする幾つもの感情を引き剥がすように、曇天色のコートを脱ぎ捨てた。
「命令とあらば、地獄に落ちても遂行すると決めていますから」


      * * *

 車内放送が発車時刻の遅延を伝えている。
 列車は従順な猟犬の様に、ホームに寄り添い、静かに身を横たえる。
 早苗は駅に降り立ち、白い息を吐いた。スマートフォンは冷え切って、耳に当てると氷の様だった。
「橘。終わった」
「そう」
 応える橘の声音に関心はない。
「私、騙されていた」
「うん」
「私も騙していた事、伝えた。自分で、ちゃんと言った」
 言葉が覚束ないのは、寒さで歯の根が噛み合わないからだ。
 電話の向こうで、橘はまたあの顔をしているのだろう。
 早苗は役目を果たした。刻弥の役に立てる事は嬉しい。烏丸家を狙う外敵を退けられて安堵している。
 万事うまく運んだ。
 何も悲しくない。苦しくない。寂しくなどない。
「早苗。お疲れ様」
 目を見開いてオリオン座を仰ぐと、冷たい空気が肺の奥まで通った。


(了)

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