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[Fennel]宴の前

*『フェンネル大陸偽王伝』の番外SSです。『終焉の詩』までの内容を含みます。

 

 

 

 

 

      

 シスタスの主都ロックローズには、六神教の下、様々な民族が共に暮らしており、また、国境の外から巡礼に訪れる者も多い。
 ロカが神殿に出入りしても目に留める人がいないのはその為だ。
 六神を崇める純粋な信仰心。歴史ある街並みに溶け込む人々の暮らしは穏やかで、国を揺るがす大事があった直後とは思えない。
 皇王が消え、この国はこれから新たな形に統制されていく。
 自分達が時代の狭間にいる自覚を、どれだけの人が感じているだろうか。
 彼らは知らない。
 シスタスの支配政策の実態も、その目的を失った事も、国の中枢に攻め入った敵国の兵が街に紛れて笑っている事も、ロカがその一人である事も。
 知らずに済んで良かったと、ロカは心から思った。
「おばさん。それは何?」
 ロカが店先に並んだ茶色の物体を指差すと、店主は繕い物から顔を上げて腰をトントンと叩いた。
「ココアを練り込んだパンだよ」
「これがパン? 薄っぺらいんだね」
「親御さんと一緒に巡礼かい?」
「まあね」
 ロカの様な客には慣れているらしい。余りに無愛想なので煩わしがられているのかと思ったが、彼女は億劫そうに腰を上げると、パンをひとつ取り、薄皮一枚残して切った端をロカの方へ差し出した。
「ありがとう」
 ロカは切れ端を千切って、口に放り込んだ。
「ん……」
 彼が知るパンとは全く異なる食感だ。シスタスに来てから普通のパンも食べたから、これがそういう種類の料理なのだろう。
 薄くて固い。しかし、干し肉の様な固さとは違う。パンの表面だけを分厚くして食べているような、密度がありながらも、噛みちぎるとサクサクとする。
 味は仄かに甘く、不思議な香りが鼻の奥に留まって、周囲の血管を伸縮させるような謎の感覚がした。
「面白い」
「食べ物の感想かい?」
「美味しいかはよく分からないや。三つちょうだい」
「銅貨二枚」
 普通のパンに比べると若干割高だ。
 食べかけのパンを入れても良いのに、店主は新しいものを三つ、質の悪い繊維紙に包む。ロカはポケットから銅貨を二枚出して台に起き、パンの包みを受け取って、通りに戻った。

 


「あらあ、貴方」
 ロカを見付けて声を掛けて来たのは、背の高い女性だった。
 ふわふわとした金色の髪が、長閑な笑みと相まって大らかな雰囲気を醸し出している。
「えーと、ほら、貴方、ねえ?」
 記憶力も大らからしい。
「ソルドのロカです。レティシアさん」
「そうそう。弟達がお世話になって」
 レティシアは間延びした物言いで真実を濁した。
 彼女が仕えるラビッジの弟王には、ロカも良いように使われた。が、彼女自身の弟ニールに利用されたのはロカの兄、シルフィードの方だろう。兄弟揃って、ラビッジに目を付けられた訳だ。
 しかし、それも過ぎた事。
 ロカは彼女の言葉に挨拶以上の意味は見出さず、歩幅を合わせて隣を歩いた。
「レティシアさんはロックローズにいて良いんですか?」
「はい。ラスにはある程度、回復して貰わないと旅路に耐えられません。その為に色々と、物理的な支度や外交的な支度が必要で」
「支度」
「シスタスからは、きっちり、頂ける物を頂かなければなりませんからねえ」
「へえ……」
 朗らかな笑顔で辛辣な事を言う人だ。ロカは思わず生返事になって、彼女から視線を逃した。
 レティシアの歩調は子供のお遣いみたいに軽快である。
「それに、近くシスタスを発つ人達もいるでしょう?」
「そうですね。物資の調達が済んだら出発するって言ってる奴が多いです」
 斯く言うロカも、数日中にソルドへ帰るつもりだ。

 


 カティアとミグレイの隊が、引き上げてくるノエル・モナルダの隊を牽制しながら入れ違いで帰国すると報せを聞いた時から、ロカは、アシュレイを連れ帰って里に送り届けると、半ば使命の様に心に決めていた。
 家出した後の帰りづらさは覚えがある。ロカの時はフェンとアシュレイが迎えに来てくれた。今度はロカがアシュレイを連れ戻して、フェンにはソルドのパンと魚を腹いっぱい御馳走するのだ。
「それで、ですね。わたし、あの、帽子の子を探しているんです。名前……あら? 名前は聞いてあったかしら」
 レティシアが頰に手を添えて思案する。
「もしかして、いかれ帽子のことですか?」
 ロカは口に出して、改めて変わった呼び名だと思った。
 サルトリィから派遣された傭兵団の一員、いかれ帽子は、その一風変わった通称だけで日々を暮らしている。傭兵の働き口を求めて人が集まる国だから、彼に限らず、偽名で通している者は多い。
 レティシアは聞いても尚、思い出せない様子で、悠長に小首を傾げてみせた。
「その、帽子の子と約束をしたんですよねえ」
「約束って」
「内容は秘密ですよ。取引です」
 うふふと笑って口元を押さえるレティシアの仕種は上品だ。その手の甲から袖口に痛々しい傷痕が見えて、ロカは彼女が弓の名手だった事を思い出した。
(王に仕えて、奪われて、耐えて、耐えて、駆け付けた。この人もすごい人だ)
 彼女が仕えるローゼルはさぞ素晴らしい人物なのだろうと思わされる。
 ロカも、そう感じて貰えるような騎士になりたい。
「オレこの後、彼奴と会います。発つ前に祝杯を上げようって話で。よければ、伝えておきましょうか?」
「まあ、闇雲に探すより遥かに素敵な御提案。お願い出来ます?」
「はい」
「ありがとうございます」
 レティシアはにこにこと笑って礼を言ったかと思うと、ロカのポケットに縫い目が悲鳴を上げるほどいっぱいの菓子を詰め込んだ。

 

 



      

 完全に子供扱いされた。
 ロカは釈然としない思いを杜撰な足取りに乗せて、通りを下った。
 手がパンで塞がっていなければ、とも考えたが、結局、断り切れなかっただろう。
 レティシアと言い、リノと言い、ニールと言い、ラビッジの人間は見た目より我が強い気がする。芯が通っているとでも表現しようか、人当たりは良いのに、考えを曲げるという事をしないのだ。
 時計塔を左手に見て通りを行くと、次第に街の空気が装いを変える。
 この辺りまで来ると、食料品店や日用品店に代わって、酒場や厩舎が軒を連ねるようになった。多くが二階を宿にして巡礼者や商人に貸す中で、一軒、やけに物々しく荒っぽい気配を漂わせる酒場があった。
 軒先に槍や盾、馬鎧を並べている所為だ。
 屈強な男達が昼から樽を囲み、ジョッキを傾けて笑い合う。
 ロカが更に近付くと、武具を磨いていた少年がこちらに気付いて、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
 小柄な身体に対して大き過ぎる帽子をかぶっている。
「旦那! 待ち切れなくて来ちゃったのかい? せっかちだなあ」
 彼が暢気に笑って駆け寄るので、ロカは出会い頭に彼の鼻先を指で弾いてやった。
 広い帽子の鍔の下で、彼が目を白黒させる。
「な、何すんだよ〜」
「伝言を頼まれた。帽子屋、お前、捜されてたぞ。約束は守れよ」
「約束?」
 いかれ帽子は大きな目を瞬かせてから、唐突に思い至ったらしい、わあわあと慌てて声を上げた。
「俺様はちゃんと守った。傭兵は信用第一だかんね」
「でも」
「最後まで聞いてくれって。良いかい? 俺様は約束を守る為に出来る事をやり終えた。けど、正しく守られたかは見届けてないって事さ」
「何だよそれ」
 ロカは聞き返して、邪魔な前髪を掻き上げた。要領を得ない話だ。
 いかれ帽子はいつも背伸びをして大人ぶってみせるが、今回は虚勢ではないらしく、自信満々といった態で胸を反らした。
「交渉事ってのは心証に左右されるだろう? 余所者の俺様が直で話をするより、慣れた奴を間に立てた方が円滑に進むってもんさ。お互い要求も言い易い」
「そうだな」
 ロカも、カティアやリー・レイを相手取るよりは、アシュレイやシルフィード、まだレジエクスの方が言いたい事が言える。
 ロカの反応を見て、いかれ帽子は益々得意げだ。
「だから、彼奴に仲介を頼んだんだよ。変わった色した髪の。旦那とも仲良しだろ」
「仲良しって! まあ……普通に友達だけど」
 改めて人に言われると気恥ずかしい。

 


 フェンは、それまでのロカの人生にはいなかった、そして今となっては、ロカの人生を語る上で欠く事の出来ない人だ。
 まだ子供で、馬鹿が付くほど正直なくせに、辛くても泣かないし、苦しくても足を止めない。他人に利用されて、それでも構わないと簡単に言ってのけるのだ。
 フェンは自分には価値がないと信じている。
 おそらく、信じ込まされている。
 だが、彼女が先陣に立つと皆が目を瞠るのは、珍しい銀色の髪だけが理由ではない。
 ロカにはフェンの生き方が、悔しくて、羨ましくて、何より誇らしかった。
「彼奴がやるって言ったんだな?」
「そうだよ」
「分かった。じゃあ、オレから伝えておく」
 頼まれた事を放り出すフェンではないが、レティシアから請け負った手前もある。
 ロカが嘆息すると、いかれ帽子はパッと顔を輝かせて、飛び付いてきた。
「助かるよー。宴の準備は俺様に任せてくれて良いからさ」
「わっ、落ちる、落ちた」
 いかれ帽子に戯れ付かれて、ポケットから菓子がぼろぼろと零れる。
「おっと」
 いかれ帽子が反射的に手を差し出して受け止めたので、ロカはその上にポケットから取り出した数粒を加えて載せた。
「やる」
「いいの?」
「たくさん貰ったから」
「ありがと、旦那。アンジェリカ達と食べるよ」
 いかれ帽子が踵を下ろして、満面に笑みを広げた。

 

 

 


      

 何度でも言うが、フェンは馬鹿正直だ。交渉事に向いているとは思えない。
 にも拘らず、自分の何倍も大きな相手に物怖じしないし、権力者も説得しようとするから、いつも見ているロカの方が気が気ではなかった。
 現に、老獪な大人は彼女を幾度となく手駒にした。
 同時に、彼女の抜き身の言葉に動かされた者も少なくない。
 ラビッジに帰る事を拒んで、潜伏していたレティシアを引っ張り出したのはフェンだと聞いたから——相変わらず無茶をする——いかれ帽子を間に挟むより、レティシアとフェンが直接話した方が手っ取り早いのかもしれない。何の交渉かは定かではないが、レティシアも融通を利かせてくれそうだ。
 ロカはフェンが行きそうな場所を廻って、時計塔に行き着いた。
 ロックローズで一際高い建築物である。
 空を突く塔の天辺に鐘を吊るして、外壁には巨大な針と文字盤と貼り付けられている。刻まれた文字はヘンルーダ語だが、数字くらいならロカでも読む事が出来た。
 フェンは何故か、時計塔が気になるようだった。遠くからでも見えるこの塔を、度々ぼんやりと眺めていたのがロカの記憶に残っている。
 この付近にいなければ、神殿に行ってみよう。あそこからも塔がよく見える。
 ロカが塔の外周を歩いて北側へ回ると、両開きの扉があった。
 建てられた当時から一度も替えられていないのだろうか。よく乾いた木は頑丈そうで、補強する金属の方が錆びている。鍵は見当たらないが、ロカの目線とほぼ同じ高さに、立ち入り禁止と書かれた金属製のプレートが打ち付けてあった。
 まさか。そんな事はあるまい。
 ロカは思いながらも、浮かんだ考えを打ち消し切れなくて、扉に手を掛け、そうっと開いてみた。
 いた。
「フェン」
 呼びかけたロカの声が、塔の内部に反響する。
 内壁に沿って螺旋状に上る階段の中程で、彼女が振り返った。
「ロカ」
「立ち入り禁止って書いてあるぞ」
「気付かなかった。入っちゃいけない事は知ってたけど」
「じゃあ、ダメだろ」
 ロカはフェンのいる所まで上ろうとして、階段の数段目で絶句した。

 


 改めて見下ろした地上階には、床がなかった。地面が抜けて、底の見えない穴が空いている。辛うじて柵で囲まれてはいたが、十段も上るとその上端を追い越してしまい、恩恵を得られそうにない。一歩踏み外せば自由落下だ。
 逃げるように視線を引き上げると、穴の真上には桶が吊るされている。
 ロカは壁際に身を寄せ、慎重に歩を進めて、フェンが腰掛ける狭い踊り場に辿り着いた。
 例の桶は、縁から下ろした彼女の足より少し下にあった。
「砂?」
 ロカはまだ遠い塔の天井を見上げた。
 上方から、砂が降る。
 小窓から差し込む陽光を受けて、空に金色の線を描くかのようだ。
「砂の重さで、あの縄を巻き付けている軸が回転して、外の針を動かすんだって」
「大掛かりな時計だな」
「うん。——あ、下りてくる」
「何が?」
 ロカの問いは宙に浮いたまま。フェンは立ち上がるや否や、ロカの手首を掴んで階段を駆け下りた。
 手摺もなく、幅の狭い階段を、自分より背の低いフェンに引っ張られて、態勢を維持し続けろというのが困難な話である。だが、ロカが踏み外したらフェン諸共、大穴に真っ逆さまだ。
「フェン」
「シィ」
 沈黙を要求されて時計塔から連れ出される。
 眩しさに目を細めている暇も与えられず、フェンに連れられるまま、ロカは時計塔を囲む朽ちた塀の陰に身を潜めた。
 二人から遅れて、時計塔から壮年の男が出て来る。身形から察するに、修道士のようだ。
 彼は時計塔の扉を閉めると、金具に横に長い閂を掛けて、街の方へと歩き去った。
「行った」
「フェン? ひょっとして、あの人が上がって行くのを見て、潜り込んだのか」
「立ち入り禁止だから」
「その言葉を考えた奴に全力で同情する」
 全く注意が機能していない。
 フェンは少しだけ返事に困ったような顔はして、服についた砂を手で払った。

 


 彼女は妙なところで悪戯慣れしている節がある。大人の目を盗むのが上手いとでも言おうか、どんな幼少時代を送って来たのだろう。
 そういえば、訊いた事がない。
「ロカも」
「ん?」
「入った。立ち入り禁止」
「!」
 そして、おそらく叱られ下手だ。叱咤する相手の矛盾を指摘したら、火に油を注ぐだけである。
 ロカは手の掛かる妹を持った気持ちになって、通りに面した塀に腰を下ろした。
「そうだよ。フェンを捜して来たんだ」
「何故?」
 フェンが隣に座り、心から不思議そうにするので、ロカの方が困ってしまう。
 ロカはフェンにレティシアの菓子を分けた。
「ありがとう」
「お前、頼まれ事したんだろ? 覚えてるよなって確認の伝言」
「それって、えーと……、こんな、帽子をかぶった……?」
 フェンが小さな頭の周りを囲むように両手を動かす。
「そう、そいつ」
「頼まれ事、した。けど、私一人では、難しい」
 フェンはぽつりぽつりと答えて、菓子の包みを開けた。
 人の厄介事を引き受け過ぎなのだ。祖国でもない国の政略に巻き込まれて、北の大国に送り込まれたり、前線に立たされたり、王に祀り上げられたり、反逆者として追われたり、貧乏くじにも程がある。彼女は幸い無事だが、報せを聞いたロカの心臓は何度竦み上がった事だろう。
「これ、美味しい」
 本人はこの無自覚である。
 太陽の下、そよ風に揺れる銀色の髪があまりにも平和で、ロカは彼女の頭を雑に撫でた。
「止めないから、手が要る時は言えよ」
「……じゃあ、」
 フェンがブーツから突き出た自分の膝小僧に視線を逸らす。
「時計塔に忍び込んだ事は内緒に」
「お互いにな」
 ロカが拳を掲げると、フェンが軽く握った手の甲をぶつけて返した。

 


「おや、騎士さん。こんな所で日向ぼっこか?」
 他国の街中で声を掛けられるとは思わなかった。
 ロカが声をした方へ振り向くと、ほんの数秒前、目の前を素通りした男が引き返して来る。
 いかれ帽子と同じく、サルトリィから来た傭兵の一人だ。
「ジェイク」
 細い顎に無精髭が生えて、強面に輪を掛けている。
「そっちは散歩?」
「まあな。噂の六神殿がどれほどのものか、ちょっとくらい観光してもバチは当たらないだろ」
 ジェイクは鋭い目元を更に細めて笑ったが、フェンを視界に入れると、僅かに双眸の温度を下げた。
 フェンとサルトリィに禍根はない筈だ。ロカは身構えるか迷って、靴底で足元を確かめるに留めた。が、あちらも職業戦闘員である。
 ジェイクはロカの変化を目敏く見抜いて、意地悪く口の端を引き上げてみせた。
「今は誰にも雇われてないぜ」
「……すみません」
 ロカは肩をすぼめた。未熟故の見極めの甘さである。
 フェンは警戒心というより観察といった眼差しでジェイクを凝視している。
「私に何か?」
「ああ。怖い顔のおっさんがお嬢さんを捜してた。兵士百人、束にして縊り殺しそうな目付きしてたから、早く会いに行った方が良いんじゃないか?」
「ありがとうございます」
「どう致しまして」
 ジェイクは手を振って、気侭な歩調を再開した。
「兵士百人」
 フェンが菓子と一緒に息を呑む。傭兵は時折、物騒な比喩を使う。
「怖い顔って言うと……」
 ロカには一人の男の顔が思い浮かんでいた。

 

 



      

 居場所を知っていると言うフェンの言葉を信じる前に、意志の疎通を確かにしておくべきだった。
「この人はないだろう」
 ロカは潜めた声で言ったが、フェンが答える暇はなかった。
「私に用があるそうだな」
 付け替えた革手袋の手首を整えて身を翻したのは、グレッグ=アーヴィングだ。
 確かに怖い顔をしている。恵まれた体躯、鍛えられた四肢。短く刈った金髪と豊かな髭、二人を見据える灰青色の瞳は彼が纏う威厳をより強固なものとして、呼吸に至るまで全ての所作が一切の隙なく洗練されている。
 床は踏むのが躊躇われるほどに磨かれて、天井は美しいアーチを描く。窓枠から鍵ひとつに至るまで行き届いた細工と調度品の細やかな意匠から特別な建物である事は感じていたが、フェンはロカより前からシスタスに入っていたから、彼女にとっては気軽に出入りするような場所なのかもしれない。——と、心を鎮めている間に、大変な場所に到着してしまった。
 どう考えても気軽に入って許される場所ではない。
 シスタス最強と名高い大司教付き近衛隊、隊長である。
「滞在中、貴殿らが不自由なく過ごされるようにと、クレノイア様から仰せつかっている。問題があれば、可及的速やかに対処しよう」
 ロカは内心、胸を撫で下ろした。
 有難い事に、アーヴィングは寛容だった。武勇だけでは人の上に立つ事は出来ない事を、生き様を以て体現するかのような人格者ではないか。
 それに、もし本当に彼がフェンを捜していたのなら、用件を聞くまでだ。
 ロカは大分、平静を取り戻して、この上は近国の騎士らしく堂々と振る舞おうと腹を括った。
 フェンは、アーヴィングと対峙して、凛とした声音で言った。
「クレノイアの横っ面を叩かせて下さい」
「!?」
 括った腹が両断される錯覚に襲われた。
「今……何と言ったか?」
 アーヴィングの佇まいが見る間に威圧感を増して、身体が一回り大きく見える。顰めた眉は険しく、声は聞く者の骨を締めて軋ませるようだ。
「クレノイアの——」
「フェン!」
 ロカはフェンの口元を手で覆い、巻き付けた腕で彼女の上体を押さえた。フェンが無垢な仔犬みたいな目で見上げてくるので、首を左右に振ってみせる。

 


 アーヴィングの形相は、まだ剣に手を掛けていないのが不思議なくらいだった。
「クレノイア様が貴様を認めようと、私は近衛隊長として、彼の方に弓引く暴挙を見過ごす訳にはいかぬ」
「貴女が私を捜していたのではないの?」
「生憎、覚えはない」
「そう……奇妙しいな」
 アーヴィングは厳格な面差しを強張らせ、フェンはフェンで難しい顔をしている。
 この場をどうやって収めよというのか。
 ロカの頭が途方に暮れて、餌の付いていない釣り針を放つみたいに、役に立たない無駄な策を次から次へと過ぎらせる。本当に無駄だ。
 その時だった。

 コンコンコン。

「失礼します」
 扉が開いて、緑衣の少年が部屋に入って来た。
「アシュレイか」
 アーヴィングの声の張り詰めた響きが、気休め程度に弛む。
 アシュレイはフェンとロカを一瞥すると、呆れた顔で眉根を寄せて、これ見よがしに視線を転じた。
「私物を取りに来ました。それから、一時とは言え、配下に入れて頂いた身です。隊長にご挨拶を」
「律儀な事だ」
 嘆息と共に、アーヴィングが威嚇態勢を解く。
「おせわになりました。それから、除隊を認めて下さり、ありがとうございます」
「エリウッドは惜しむだろう。彼が部下を選ぶなど、そうない事だ」
「同意しかねます。僕は彼に必要な人間ではありませんでした」
「成程。選んだのはお前の方らしい」
 アーヴィングが重厚な笑みを含んだ視線を、フェンとロカに投げて寄越す。
 フェンが反応して身構えたので、ロカは抑え付ける腕に力を籠めて、アシュレイに必死に念を送った。
 助けてくれ。
 何でも良いからどうにかしてくれ。
 アシュレイは察しが良い。彼は辟易とした表情で顎を引いた。
「アーヴィング隊長。除隊前、最後の御用命があれば」
「そう来たか」
 金の髭を従えて、アーヴィングがにやりと笑う。
「アシュレイ。私は国内の事で手一杯だ。そこの来訪者を預けよう。クレノイア様に憂いなきよう計らえ」
「お約束します」
 恭しく答えたアシュレイの横顔は、その時だけ、まるで六神に身を捧げた忠臣の様だった。
 

 

 


      

 アシュレイの従順な態度は、部屋を一歩出た途端、フェンとロカに対する訝しみに取って代わられた。
「君達がアーヴィングの部屋に入って行くなんてただの馬鹿じゃないと思ったけど、想像以上の馬鹿だった。弁明してみる?」
「クレノイアに敵意は持っていない」
 フェンが弾かれたように答えたが、肝心なのはそこではない。
 ロカは安堵と困惑を綯い交ぜにしてフェンに詰め寄った。
「何でアーヴィング? フェンを捜してる怖い顔って言ったらテオだろ」
「テオは怖くない。それに、兵士百人を倒すなら、アーヴィングの勝率が高いと思う」
「充分怖いよ。大体、要求が奇妙しい」
「アーヴィングから私に頼みがあるなら、交換条件で聞いて貰えるかもって」
「クレノイアはこの国で一番偉い奴だぞ?」
「だから」
 フェンが言い差して、拗ねたように唇を歪める。
「だから?」
 アシュレイが冷めた物言いで促すと、彼女は小さな声で言葉を継いだ。
「約束した。『皇王の横っ面に一発かまして来てよね』って」
「は……」
「皇王はいなくなったけど、実質、指揮を取っていたのはクレノイアだから」
「いや、うん。そこは合ってる。じゃなくて」
 ロカはただでさえ混乱している上に、アシュレイの白眼に晒されて、自分の中で確実に分かっているところまで話を手繰り寄せた。

 


「帽子屋が頼んだ『約束』はレティシアさんとの交渉だろう?」
「帽子屋? クレインは雑貨屋さんだよ」
「クレイン?」
 ロカの記憶が正しければ、サルトリィで会った商人だ。仔豚を連れて、フェンの友人だと言っていた。
 帽子を、かぶっていたかもしれない。
「皇王もクレノイアも、既に張り倒したようなものじゃないか」
 アシュレイが言ってしまってから、周囲の目を気にして、二人を外へと追い立てる。まだ大司教の懐だった。
 フェンが小走りにアシュレイを追って、ホールを横切り、正面玄関前の階段を駆け下りる。
「クレインがわざわざ言って来たんだもの。ちゃんと叩かなきゃダメだったんでしょう?」
「フェン、悪い。クレインじゃない。オレに伝言を頼んだのは帽子屋だ。サルトリィのいかれ帽子」
「あの馬鹿でっかい盾で邪魔してくれた奴か」
 アシュレイが面白くなさそうに独りごちる。フェンはまだピンと来ないらしい。
 絡まった伝言の糸が徐々に解けていくにつれて、ロカは背筋が冷えるのを感じた。太陽の日差しがちっとも暖かく感じられない。
「帽子屋は、変わった髪色の奴に仲立ちを頼んだって言ってた。フェンじゃなければ、帽子屋は誰に頼んだんだ?」
「いかれ帽子と誰の?」
「ラビッジのレティシアさん」
 ロカの答えに、アシュレイとフェンが同時、同方向に首を傾げる。
「シアはサルトリィと接触してたかな……」
「因みに、レティシアとクレインは?」
「一緒だったよ。クレインが私の所為でシスタスに捕まって、取り返した時にシアが介抱してくれた」
「…………」
「それじゃない?」
 アシュレイは得たりという顔だ。
「どれ?」
 フェンが聞き返した瞬間、ロカの寒気が最高潮に達した。
 

 

 


      

 サチには心行くまで笑われた。
「最初から誤解だったのか。よくそこまでこじれたなあ」
 騒がしい店内でもサチの快活な声は聞き取りやすくて、的確にロカの心を抉ってくる。紛れもなくロカの失態だ。甘んじて受ける他ない。
「レティシアが捜していたのはクレインで——」
「護身用の短剣を貸していたそうです」
「いかれ帽子に傭兵団と連合の代理交渉を頼まれたのはオレ」
「はい……」
「フェンを捜していた怖い顔はテオか」
「テオは怖くないよ」
 フェンはそこを譲らない。客観的に見れば充分、近寄り難く厳つい顔だが、確かにロカも彼を怖いとは思わないから、慣れは偉大だ。
 ロカが机に突っ伏した。
「カムマイル湖に沈みたい」
 恥ずかしくて、皆に申し訳なくて、出来る事なら一日時間を戻してやり直させて欲しい。
「ロカ」
 後頭部を叩かれて頭を擡げると、サチが蹴術を教えてくれる時と同じ顔をしている。笑ってはいるが、暗紫色の瞳は澄んで静かだ。
「次にいつ会えるか。もしかしたらこれきり、一生会えない奴だっている。後悔に足を引っ張られて、新しい後悔を作るほど、つまらない時間の使い方はないぜ」
「……。はい」
 ロカは身体を起こして頷いた。
 騒がしく賑わう酒場は夜闇を寄せ付けず、幾つもの国から集った人々でごった返している。誰と構わず笑い合う彼らの中に、今日この日、この場所、この顔ぶれで酒を酌み交わしていると想像した者が一人でもいただろうか。一年前のロカは考えもしなかった。
 時は過ぎる。天井から降る砂は、決して流れを遡らない。
 漸くここまで歩いて来た、ロカの大切な今だ。
 ロカはしっかりと顔を上げて、心に居座ろうとする羞恥を力任せに追いやった。
「フェン。オレが言ってた帽子屋を紹介する」
「じゃあ、私もクレインを呼んでくる」
 フェンが店内を見回して、キャスケット帽をかぶった少女に駆け寄っていく。一緒にいるのはシスタス三将のゴルディ・ゴードンとエルムンド・ハネイだ。仔豚に懐かれて、ゴードンは嬉しそうに、ハネイはこの世の終わりの様な顔をしている。
「アシュレイも来いよ」
「えええ面倒くさい」
「アッハッハ。アシュレイ、年甲斐がないぞ」
「それ、使い方奇妙しいよね、年長者?」
 サチに揶揄われて、アシュレイが渋々、ロカの後を付いて来る。
「帽子屋」
 ロカが手を掲げて呼ぶと、いかれ帽子と傭兵団が鍛え抜かれた豪腕で彼らを宴の輪に巻き込んだ。

(了)
 

| 未発表短編>Fennel | 03:28 | - | - |